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ささやかな出来事

2008.08.19

先日、所要で福島県いわき市郊外まで足を運びました。
1日の日程を終え、宿泊したのは海沿いにある小さなビジネスホテルでした。
ビジネスホテルといっても、どちらかというとちょっとお洒落でアットホームなペンションという感じで、スタッフの女性も笑顔を絶やさないフレンドリーな対応で我々を出迎えてくれました。

さて、夕刻到着した我々一行は夕食を取るため1階にある食堂に出向きました。
連れのみんながビールや焼酎など飲みたいアルコールを注文する中、私だけひとり無理を承知で「日本酒をお燗できませんか?」と頼んでみました。
夏の真っ只中で、ましてやここは小さくてペンションのようなビジネスホテル、お燗なんて頼んで驚かれて、もしかして断られるかもと恐る恐る聞いてみたのですが、その女性は軽く頷いて厨房に入って行き、しばらくして出てきた彼女の手には徳利とお猪口が握られていました。
「いわき市の地酒○○です。とってもおいしいですから飲んでみてくださいね」
笑顔でそう言われて手渡されたお酒は適度なぬる燗で、確かにうまみが滑らかに口中に広がる、とてもおいしいお酒でした。
たぶん彼女自身がしっかり湯せんしてきてくれたものと思われます。
そのおいしさは、お酒そのものに加えて、その女性の温かな気持ちも合わせて感じられたものだったと思います。
「お酒」と頼むと銘柄も告げずに持ってくるお店が多い中、当たり前のこととはいえしっかりと銘柄を伝え、しかもそこにさり気なく暖かなひとことを添える、たったそれだけのことでおいしさや楽しさは倍増することを実感したひとときでした。
結局そのあと何本もお銚子をお代わりしてしまい、部屋に帰ってからもみんながわいわいと賑やかに話に昂じる中、私ひとり睡魔の向こうに引きずり込まれていったのでした。

ちなみに翌朝、早々に起床してロビーでテレビを見ていると、目の前に缶コーヒーの販売機があるにも関わらず、件の女性がわざわざそこにいる全員にカップに注がれたホットコーヒーを出して下さいました。
つまりここはそういうホテルなんだなと、何だか改めて心温まる思いに包まれました。

中上健次

2008.08.12

8月12日、今日は私が敬愛する作家中上健次(なかがみけんじ)の命日です。

中上健次は紀伊半島のほぼ突端に位置する新宮市で生まれました。
被差別部落の出身で、加えてその家系は大変複雑であり、その事が生涯を通じて彼の作品に色濃く反映されました。
新宮高校時代は不良少年である傍ら圧倒的な読書量を誇り、上京後は新宿のジャズ喫茶に入り浸りながら小説を同人誌に投稿する日々でした。

その後も羽田空港で肉体労働に従事しながら、原稿用紙と万年筆を常に携帯して喫茶店の片隅で小説を書き続け、それについて中上自身が「俺の小説は喫茶店文学だ」と語っています。
「俺は汗で稼いだ金しか認めない」と言って、小説で稼いだ印税を捨てるように新宿のゴールデン街で使い果たしていたのもこの頃です。

新聞配達をしながら爆弾のいたずら電話を無差別に掛けまくる少年の姿を描いた「十九歳の地図」が芥川賞候補となるとともに栁町光男監督によって映画化され、作品は小説同様大きな評価を得ました。
そして、中上の被差別部落出身という出自や彼自身の複雑な家系を、紀州新宮という土地の特殊性と絡めて描いた私小説的作品「岬」で、ついに芥川賞を受賞。
その濃密で圧倒的な文体は、続編として描かれた「枯木灘」「地の果て至上の時」と共に3部作として絶大な支持を得ました。

その後も中上は、紀州と血族の問題に一貫してこだわり、「地と血への回帰」をテーマに精力的に作品を発表し続けました。
しかしそんなさ中、中上が腎臓ガンを患っていることが発覚、地元紀州に戻り闘病生活を続けましたが46歳の若さでこの世を去りました。

私が中上健次に初めて出会ったのは高校時代、「ジャズと爆弾」という村上龍との対談集でした。
その無頼性にいっぺんで中上に魅了されてしまい、その後は中上の小説を読み漁りました。
今でもぼろぼろになった「岬」や「枯木灘」が私の鞄の片隅に入っていて、折に触れページを開いています。

数年前には、中上が生まれそして数々の小説の舞台となった新宮という街をぜひ見てみたいと、妻と一緒に新宮市を訪ねました。
その時は事前に問い合わせをした新宮市役所観光課の方がわざわざ出迎えて下さり、中上健次にまつわる場所の数々…彼が小説で「路地」と呼んだ一角、「火まつり」の舞台にもなっている神倉神社、新宮市立図書館内にある中上健次資料収集室、そして中上の墓に至るまで、同行してご案内頂きました。
海と山とに囲まれたその小さな大地は、確かに中上が小説で描き続けた息吹が感じられました。

また翌年には、2月6日の「御燈祭り(=火まつり)」の日に新宮市を再訪。
午後8時、山の中腹にある神倉神社から境内の門が開かれると同時に、松明(たいまつ)を持った白装束の男たちが一斉に急な石段を駆け下り、山の夜闇の中に松明の火が一斉に灯る光景は、男祭りの荒々しさとあいまって鳥肌が立つ思いでした。
この光景は中上健次脚本で同じく栁町光男が監督した映画「火まつり」でも描かれ、観る事ができます。

今年はお休み

2008.08.08

例年この時期に岩手県花巻市で1週間にわたって開催される「南部杜氏協会夏季酒造講習会」。
毎年参加していたのですが、今年は日程が一週間遅れて月末月初にまたがってしまったため、残念ながら出席できませんでした。
そんなわけで今年は無念のリタイアだったのですが、昨年までの経験から、この講習会の様子だけでもお伝えしたいと思います。

会場は「石鳥谷生涯学習会館」という3階建ての大きな公民館です。
旧石鳥谷(いしどりや)町は数年前の広域合併で花巻市となりましたが、この石鳥谷はまさに南部杜氏の里で、この会館のすぐ横に「南部杜氏協会」の本部があります。

講習は「特科」「研究科」「杜氏科」の3クラスに分かれていて、初年度の講習生はまず「特科」を受講します。
3日間にわたって酒造の基礎をみっちり学んだあと、最後に試験が実施されます。
この試験に合格して初めて、翌年から1クラス上の「研究科」に進む事が許されます。

さて、その「研究科」、私も現在このクラスに所属しているのですが、この「研究科」には何年でも在籍することができます。
講師として、各国税局の鑑定官をはじめとして酒造の分野でトップを走る先生方をお招きし、毎年刻々と変化する酒造の最新知識と情報とを学んでいきます。
「酒造全般」「酒造米」「麹」「酵母」「品質管理」「分析」「酒税法」・・・その内容は常に新鮮で、内容も毎年変わるので、何年受講しても飽きる事がないのです。
講師の先生の迫力ある「生」の解説、そしてパソコンからスクリーンに次々に映し出される画像の数々、それらをひとつたりとも聞き逃がさず見逃すまいと、会場内は常に緊張感に満ちています。

そして「研究科」の上に、酒造の頂点を目指す「杜氏科」があります。
私は受講したことがないので詳しい講習の内容は分かりませんが、教室は例年少数精鋭で、そこで試験に合格した人が晴れて「南部杜氏協会」より「杜氏」として認定されます。
試験の内容は、酒造の専門的な知識に留まらず、酒造り集団のトップとしてのリーダーシップのあり方、さらにはこれまでの酒造の経歴までが加点対象としてチェックされた上で合否の判定が下されます。
毎年張り出される合格者名簿を見ると「杜氏」となれるのは10名前後の厳しい門です。

そのような講習会の場に、学びの場を求めて、全国からたくさんの蔵元関係者が集まってきます。
講習会で学ぶ内容はもちろんですが、そんな場に身を置くことそれ自体が大きな刺激となって、明日への大きな活力をたくさんもらってくるのです。

富山 松乃寿司

2008.07.29

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前回より続きます。

午後7時半、富山駅からタクシーに乗って向った先は、富山市郊外にある「松乃寿司」。
初めて訪問した時から大ファンで、富山に来るとここに顔を出すのがお決まりのコースになっています。
いつも「お任せ」でお願いするのですが、その日獲れた新鮮な日本海の幸を、素材によって手を変え品を変え、これでもかこれでもかというくらい質も量も満足度いっぱいになるまで食べさせてくれる、刮目に値する一軒です。

ちなみに以前、弊社の社員旅行で北陸を訪れた際、初日の昼食をこの「松乃寿司」で取ったのですが、あまりのおいしさに社員一同が大感激、今でも語り草になっています。
ただこの時は、ここでのお昼があまりにも素晴らしかったため、その晩泊まった氷見の民宿での夕食が霞んでしまったという、何とも贅沢でもったいないオチまで付いてしまいました。

お父様と一緒にお店を切り盛りするのは若旦那の松さん。
マンガ「美味しんぼ」で、海原雄山と山岡が富山県をテーマで対決した際に、富山の食文化の担い手のひとりとして実名で登場されたりもしています。

この日も、大ぶりの岩ガキと野趣溢れる岩もずくから始まった酒肴の数々は、松さんのお父様が選んで下さった数々の地酒が進むこと進むこと。
さり気なく、既に国内で取れ始めたという松茸の土瓶蒸しが出てきたりと、いつもながら驚きと楽しみに満ちたメニューが続きます。
そして握りもお任せで、お腹がはちきれそうになるまで堪能して、あっという間の富山の夜は更けていったのでした。

気まぐれ富山

2008.07.25

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所要のため富山市を訪れました。
夕方、次の予定まで2時間ほど空いたので駅前のホテルにチェックインしたあと、せっかくの富山の風情を楽しもうと、何とはなしに富山駅まで足を運びました。

僕はこうやって知らない土地を当てもなく歩くのが大好きなのです。
この日もとりあえず富山駅まで行ってから、2時間の範囲内で電車で往復できる場所をチェック。
ちょうど、富山駅から5駅先の高山本線「越中八尾(えっちゅうやつお)」行きの各駅停車が発車する事を発見して、ホームの片隅に停まっている2両編成のディーゼル列車に飛び乗りました。

3割ほどしか埋まっていない車内は、ひと駅到着するごとにお客さんが下車し、単線でだんだんと自然の中に分け入っていく車窓と共に、ローカル線の趣きが深まっていきます。
約30分ほどで終点の越中八尾駅に到着。
思いのほか大きな駅のホームに降り立って、今来た列車が折り返し富山駅行きとなるまでの30分間、駅の外に出てみる事にしました。

駅前商店街はあまり人通りもなく閑散としていましたが、1時間前までは考えてもいなかった土地に自分が立っている事を思うと、それだけで束の間の旅の風情が感じられて、自然と心も躍るのでした。

時計を気にしながら駅に戻り、先程来た列車に再度乗り込むと乗客は私ひとり。
やがて乗り込んで来たもうひとりの男性とふたりだけを乗せて、列車は富山に向って発車しました。

富山駅に着いたのは午後7時半前。
その足でタクシーに乗り込み、どこへ向かったかはまた次回に続きます。
(写真は越中八尾駅と駅構内)

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