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信濃グランセローズ

2008.11.22

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2年前に発足した、北信越の6チームが競うBCリーグ(ベースボールチャレンジリーグ)、我が長野県では地元球団として「信濃グランセローズ」が活躍しています。
先日、私もPTA役員を務める地元の小学校に、「PTA講演会」の講師としてその「信濃グランセローズ」をお招きしました。
私が初めて球団にお声掛けしたのがちょうど1年前、球団からご快諾の返事とその後も大変誠意あるご対応を頂き、1年越しの準備を重ねてようやく迎えた今日この日でした。

お越し頂いたのは球団社長の三沢今朝治氏、そして選手を代表してピッチャーの小高選手・キャッチャーの中村選手・内野手の市川選手の3名でした。

ちなみに「PTA講演会」は普段は保護者のみを対象として行われるのですが、この日はせっかくこのようなゲストが来るのだからと、子供たちも一緒に参加しての開催となりました。

最初は三沢球団社長により、「夢をあきらめない」というタイトルでご講演を頂きました。

その三沢球団社長ですが、現役時代は東映→日拓→日本ハムで活躍され、その後は日本ハムファイターズのフロントに就任、中でも球団を北海道に移転させた時の中心人物として名を馳せていらっしゃいます。
また新庄が日ハム入りする際に最初にコンタクトを取ったのもこの方です。

タイトルの「夢をあきらめない」、これは信濃グランセローズの選手たちがいつかNPB(日本野球機構・いわゆる日本のプロ12球団)でプレーすることを夢見て日々どん欲に野球に取り組む姿勢を紹介しながら、また三沢社長ご自身のプロ生活を振り返りながら、皆さんも夢をあきらめないで頑張って下さい!という熱いエールによって締められました。

続いて今度は現役の選手3名が登場して、子供たち相手にミニ野球教室が開かれました。
まずは保護者も参加してのストレッチ教室、小高投手の巧みな話術に場内は既に湧いています。
そのあとは野球の基本ともいえるキャッチボールを見本を見せながら指導。
そしてバッテリーが実際にストレートや変化球を織り交ぜながら投球を披露して、そのスピードと迫力に場内からは歓声が上がりました。
さらには代表の児童たちがステージに登って、ゴロの裁き方、素振りの仕方など、選手からマンツーマンで教わったのですが、ここでも場内を飽きさせない選手の皆さんの話術で、皆が一体となって楽しむことができました。

最後は会場の出口で球団社長と選手の皆さんが子供たちとハイタッチ、楽しいひとときがあっという間に過ぎていきました。

日頃はなかなか触れ合うことができない本物のスポーツ選手と触れ合えたこのひとときは、子供たちにとっても貴重な思い出となると思います。
と共に、来季はまた少しでも球場に足を運ぶ親子が増え、信濃グランセローズ、ひいては長野という地域がより活性化することを願っています。

星野仙一講演会

2008.10.30

弊社も所属する「法人会」、その関東信越法人会青年部のセミナーが長野市内のホテルで開催され、参加して参りました。
メインの講演会の講師は星野仙一氏。
半年以上前から決まっていたとはいえ、今まさに話題の人物の登場とあって、会場は立錐の余地もない程の聴衆で埋め尽くされました。

開口一番「きのう、WBCの監督、決まったねぇ」で、場内まず大爆笑。
「野村さんも、あそこで素直に俺がやりたいって言っていたら、王さんの後押しもあるんだから決まってたんだよ」とさらに笑いに輪を掛けます。
それから話は4位に終わった北京オリンピック、そして今渦中のWBC監督問題へと進んだのですが、正直なところ、誰もが一番聞きたいと思っていて、しかしあまり触れてはもらえないだろうなという話題をここまで明け透けに、そしてたっぷり時間を取って話して頂けたのには驚きました。

話は世間のバッシングがいかに凄まじいか、まずそこに触れ、自分は我慢できるけれども子供や孫など家族にはつらい思いをさせているという心情を吐露されました。
そして加熱するマスコミ報道に言及し、事実と食い違っている部分にはひとつひとつ反証を加えていきました。
例えば、中日の監督の時にイチローをドラフト指名しなかった事が遺恨となって今回のイチロー発言に繋がっていると言われているがドラフトが行われたシーズンオフは私は退任が決まっており人事権は一切なかったこと、北京オリンピックでは野球チームが一流ホテルに泊まったと非難されているがあれはオリンピック委員会が手配した宿舎に従って泊まっただけであってしかも直前にテロ対策でホテルが変更されるなど我々の希望がおよそ及ぶものではなかったこと、等々興味が尽きない話が続きました。
また、北京オリンピックでは戦力は整っていても他国のチームに比べて明らかに準備期間が足りなかった点、さらに選手間のコミュニケーション不足が否めなかった点にも率直に触れていました。
「強いチームが勝つのではなく、勝ったチームが強いんです」という星野氏の発言に、すべての思いが集約されていたような気がします。

そして講演のクライマックスは阪神の監督時代、金本を広島からFAで移籍させた時の苦労話。
私は星野仙一氏の講演を聞くのは2回目で、その時もこの話題は出たのですが、やはり大きな苦労を乗り越えて心の奥からほとばしり発せられる言葉というのは何度聞いても迫力が違います。

広島球団や山本監督そして熱心な広島ファンへの思いを断ち切ることがができずに阪神移籍を思い悩む金本に、一年前星野氏自身が古巣中日の監督を辞任し苦悩の末阪神の監督を受諾した時の思いを重ね合わせながら金本を説得し、ついにFA期限切れ当日の深夜に金本から絶叫しながら「お世話になります!」と電話をもらった時の逸話が切々と語られました。
その中で、星野氏が阪神の監督受諾に思い悩むくだりで「自分を客観的に眺めてみたんです。そうしたら、受けるか受けないか悩んでいるという事は、自分は監督を受けたいんじゃないか!という事に気が付いたんですね」という言葉は印象的です。

そして阪神金本が誕生し、しかし金本は移籍金に関して巨人や中日よりはるかに低かった金額に一切不満を表さなかった事、金本ひとりの存在が阪神を変えると信じていた星野氏の思い通りチームが生まれ変わった事、そして「外様」に厳しい阪神ファンの中で金本を今「よそ者」呼ばわりする者は誰ひとりおらんでしょう!と「男」の生きざまを称える金本への賛辞で星野氏の言葉は結ばれました。

会場を常に笑いの渦に包みながらも、経験値で裏打ちされた情熱溢れる星野仙一氏の話に場内は引きずり込まれ、あっという間に一時間半という時間が過ぎておりました。
「野村監督、私は好きですよ。それにしてもあのオッサンは心底野球が好きで好きでしょうがないんですね」とおっしゃっていたその言葉をそのまま星野氏にも返したい、そんな思いに満ちた講演会でありました。

龍勢祭

2008.10.02

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10月第二日曜日に当たる12日、今年も埼玉県旧秩父郡吉田町(現秩父市)で、「龍勢(りゅうせい)祭」が開催されます。
このお祭りは地元の椋(むく)神社の例大祭に奉納する神事して行なわれます。

「龍勢祭」の特徴をひとことでお伝えすると、27の流派が伝統の製法に則って作り上げた、松の筒に火薬を詰めたロケットを、15分に一発ずつ点火して空に打ち上げるという壮大なものです。
ロケットが煙とともに空に飛んでいく様子がまるで「龍」のようである事から、「龍勢」と名付けられました。

ゴーッという凄まじい轟音を伴なって打ち上がったロケット「龍勢」が上空まで達すると、松の筒に仕込まれたパラシュートが開いて優雅に落下し、そこで会場を埋め尽くした数万人の観客からは大きな歓声と拍手とが送られます。
しかしすべての龍勢がそのように綺麗に成功するとは限らず、中には山の中腹に建てられた発射台で点火した直後、あるいは打ち上がっている最中に惜しくも爆発してしまう龍勢も少なくなく、だからこそ見事に打ち上がった龍勢に対しては、流派を越えて惜しみない拍手が送られます。

この龍勢、秋の声が聞こえ始めると、それぞれの流派は1ヶ月も前から準備に入ります。
松の筒作りから始まり、火薬作り、そして旧吉田町が建てた専用の建物での火薬詰め作業まで、連日作業が続きます。
関係者以外一切立ち入り禁止のエリアで行なわれるこれらの作業は、一瞬の打ち上げに賭ける男たちの真剣勝負を垣間見る思いがして、こちらまで身の引き締まる思いです。

私がこのお祭りに参加するようになったのは10年程前からです。
「龍」という名前が一緒、しかも「和田」繋がりという事で、流派のひとつ「和田若連」の皆様が旅行の途中、マイクロバスでわざわざ来社して下さったのがきっかけです。
その感謝の思いも込めて、私もぜひ「龍勢祭」に一度お伺いしてみようと当日吉田町まで足を運んだところ、一度でこのお祭りの虜になったのでした。
それから年を追うごとに和田若連の皆様との交流も深まり、それに比例して10月の「龍勢祭」への思いもどんどん深まっていく、そんな関係がずっと続いています。

今年もあと10日で「龍勢祭」がやって参ります。
今年はどんな龍勢が打ちあがるのでしょうか?
今から期待で胸躍ります。

中上健次

2008.08.12

8月12日、今日は私が敬愛する作家中上健次(なかがみけんじ)の命日です。

中上健次は紀伊半島のほぼ突端に位置する新宮市で生まれました。
被差別部落の出身で、加えてその家系は大変複雑であり、その事が生涯を通じて彼の作品に色濃く反映されました。
新宮高校時代は不良少年である傍ら圧倒的な読書量を誇り、上京後は新宿のジャズ喫茶に入り浸りながら小説を同人誌に投稿する日々でした。

その後も羽田空港で肉体労働に従事しながら、原稿用紙と万年筆を常に携帯して喫茶店の片隅で小説を書き続け、それについて中上自身が「俺の小説は喫茶店文学だ」と語っています。
「俺は汗で稼いだ金しか認めない」と言って、小説で稼いだ印税を捨てるように新宿のゴールデン街で使い果たしていたのもこの頃です。

新聞配達をしながら爆弾のいたずら電話を無差別に掛けまくる少年の姿を描いた「十九歳の地図」が芥川賞候補となるとともに栁町光男監督によって映画化され、作品は小説同様大きな評価を得ました。
そして、中上の被差別部落出身という出自や彼自身の複雑な家系を、紀州新宮という土地の特殊性と絡めて描いた私小説的作品「岬」で、ついに芥川賞を受賞。
その濃密で圧倒的な文体は、続編として描かれた「枯木灘」「地の果て至上の時」と共に3部作として絶大な支持を得ました。

その後も中上は、紀州と血族の問題に一貫してこだわり、「地と血への回帰」をテーマに精力的に作品を発表し続けました。
しかしそんなさ中、中上が腎臓ガンを患っていることが発覚、地元紀州に戻り闘病生活を続けましたが46歳の若さでこの世を去りました。

私が中上健次に初めて出会ったのは高校時代、「ジャズと爆弾」という村上龍との対談集でした。
その無頼性にいっぺんで中上に魅了されてしまい、その後は中上の小説を読み漁りました。
今でもぼろぼろになった「岬」や「枯木灘」が私の鞄の片隅に入っていて、折に触れページを開いています。

数年前には、中上が生まれそして数々の小説の舞台となった新宮という街をぜひ見てみたいと、妻と一緒に新宮市を訪ねました。
その時は事前に問い合わせをした新宮市役所観光課の方がわざわざ出迎えて下さり、中上健次にまつわる場所の数々…彼が小説で「路地」と呼んだ一角、「火まつり」の舞台にもなっている神倉神社、新宮市立図書館内にある中上健次資料収集室、そして中上の墓に至るまで、同行してご案内頂きました。
海と山とに囲まれたその小さな大地は、確かに中上が小説で描き続けた息吹が感じられました。

また翌年には、2月6日の「御燈祭り(=火まつり)」の日に新宮市を再訪。
午後8時、山の中腹にある神倉神社から境内の門が開かれると同時に、松明(たいまつ)を持った白装束の男たちが一斉に急な石段を駆け下り、山の夜闇の中に松明の火が一斉に灯る光景は、男祭りの荒々しさとあいまって鳥肌が立つ思いでした。
この光景は中上健次脚本で同じく栁町光男が監督した映画「火まつり」でも描かれ、観る事ができます。

気まぐれ富山

2008.07.25

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所要のため富山市を訪れました。
夕方、次の予定まで2時間ほど空いたので駅前のホテルにチェックインしたあと、せっかくの富山の風情を楽しもうと、何とはなしに富山駅まで足を運びました。

僕はこうやって知らない土地を当てもなく歩くのが大好きなのです。
この日もとりあえず富山駅まで行ってから、2時間の範囲内で電車で往復できる場所をチェック。
ちょうど、富山駅から5駅先の高山本線「越中八尾(えっちゅうやつお)」行きの各駅停車が発車する事を発見して、ホームの片隅に停まっている2両編成のディーゼル列車に飛び乗りました。

3割ほどしか埋まっていない車内は、ひと駅到着するごとにお客さんが下車し、単線でだんだんと自然の中に分け入っていく車窓と共に、ローカル線の趣きが深まっていきます。
約30分ほどで終点の越中八尾駅に到着。
思いのほか大きな駅のホームに降り立って、今来た列車が折り返し富山駅行きとなるまでの30分間、駅の外に出てみる事にしました。

駅前商店街はあまり人通りもなく閑散としていましたが、1時間前までは考えてもいなかった土地に自分が立っている事を思うと、それだけで束の間の旅の風情が感じられて、自然と心も躍るのでした。

時計を気にしながら駅に戻り、先程来た列車に再度乗り込むと乗客は私ひとり。
やがて乗り込んで来たもうひとりの男性とふたりだけを乗せて、列車は富山に向って発車しました。

富山駅に着いたのは午後7時半前。
その足でタクシーに乗り込み、どこへ向かったかはまた次回に続きます。
(写真は越中八尾駅と駅構内)

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