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「哲ねこ七つの冒険」

2012.12.01

いつも一家でお付き合いさせて頂いているご近所のKさんファミリー。
お嬢様のAさんが息子と同じ高校の1年生です。

そのAさんが大の本好き。
読書量と速度は大人顔負け、驚くべきものがあります。

しばらく前には、私が読了したばかりの古典ミステリーの傑作、サラ・ウォーターズの「半身」を渡したところ瞬時にして読み終えてくれたり、私が薦めた開高健をすぐに図書館で探し当ててくれたりと、本を通じての楽しいキャッチボールを楽しむ毎回です。

そんなAさんが小さい頃から思い入れのある一冊として挙げたのが「哲ねこ七つの冒険」(飯野真澄著)でした。
早速彼女から借り受け、児童文学としては異例の400ページ超というぶ厚い一冊を読み始めました。

主人公の女の子とお母さんが旅先の黒姫高原で迷い込んだ不思議なねこたちの世界。
そこでは哲学を語るねこ、すなわち哲ねこたちが、ふたりを素敵な哲学の冒険の世界に誘います。

いやあ、面白かったです。
児童文学という枠を越えて、女の子とお母さんが成長していく姿に胸躍らせ、最後は思わずホロリとしてしまいました。

七つの冒険で出てくる哲学者のパロディも秀逸で、アリストテレスから始まって、途中ハイデガーまで登場した時は驚きで思わずのけぞってしまいました(笑)。

昨夜その本をAさんに返却したのですが、その際せっかくだから私からも何か本をプレゼントしようと、悩むことしばし。
同好の士へ贈り物を選ぶ時間は、まさに至福のひとときです。

迷った末に選んだのは「武士道シックスティーン」「武士道セブンテイーン」「武士道エイティーン」(誉田哲也著)の3部作。
刑事小説を専門にしていた筆者が初めて手掛けた青春小説で、最後のページを閉じた瞬間、不覚にも私は泣いてしまいました。
映画化された時も真っ先に観に行きましたし、私の大のお気に入りのシリーズです。
Aさんにも気に入って頂けると嬉しいな。

一生懸命の意味

2012.11.12

東京のJR品川駅高輪口のすぐ脇に1軒のパチンコ店があります。
このお店の前を通るたびに必ず目にするのが、客寄せのために自動ドアの前で、ハッピ姿で元気よく踊っているアルバイトの学生さんです。

時には男性1人だけで、時には女性1人だけで、またある時は男性と女性2人で、音は流れていませんがたぶんi-podか何かを聴いているのでしょう、リズムに乗りながら一心不乱に道行く人の目の前で踊り続けています。
逆に音がないからこそ、ハッピ姿で延々と踊り続けるその姿は通行人の目を引くにはあまりに十分です。
かくいう私の目も、お店の前を通る時は彼らに釘付けです。

そして見るたびに感じるのですが、踊っている学生さんによって、彼らの恥ずかしさの度合いがはっきり分かるのです。

いくらバイトとはいえ「やらされている感」がある人というのは、踊りもどことなくぎこちなく、そして動きも緩慢です。
逆にこれは仕事と割り切って羞恥心をかなぐり捨てて踊っている人は体のキレもよく、そして何より表情が明るいです。
特に女性が踊っている場合はそれを顕著に感じます。

で、何が言いたいのかというと、どうせ恥をかくのならキッパリとかき捨てて踊っている学生さんの方が輝いて見えるという事です。

ちょっと下をうつむいて恥ずかしそうに踊っている学生さんには、そうやって恥ずかしがっている方がカッコ悪いよ、どうせなら思い切りハジけちゃいなよ、その方がうんとカッコよく見えるから、思わずそう言ってあげたくなります。

彼らにとってみれば、バイトでパチンコ店に行ったら店の前でひたすら踊ることをたまたま命じられて、こんなはずじゃなかったともしかしたら思っているかもしれません。
でもそこで一生懸命にできるか否かで、その人のその後の生きざままで、たとえちょっとずつでも変わってくるのではないか、そんな気がいつもしています。

そしてその光景を見ながら、実は私自身も学ばせてもらっているのです。
最後に必ず「頑張れよ」と心の中で呟いて、そのお店の前を通り過ぎる毎回です。

文章は理論なり

2012.11.02

前回の流れでもう少し書かせて下さい。

高校時代、授業に付いていけず落ちこぼれた私は、授業中こっそりと中上健次や開高健や村上龍といった作家を読み耽る毎日でした。
さらには高校3年にもなると授業そのものがかったるくなって、授業をさぼっては図書館に入り浸るようになりました。

受験の結果は当然のごとく失敗。
浪人生として東京の代々木ゼミナールへ通うようになり、そこで私は大いに影響を受ける事となる1人の講師と出会いました。

堀木博礼先生。
現代国語の講師で、代ゼミでも1・2を争う人気講師でした。
知っていらっしゃる方も多いのではないでしょうか?

堀木先生の日頃の教えをひとことで要約すれば「文章は理論」、これに尽きます。

それまで現代国語の試験といえば、感覚で解答するのが当たり前で、例えば「この時の主人公の心理を述べよ」とか「ここでの筆者の主張を100字以内で記せ」とか、ほとんどの設問は感覚で答えているのが常でした。

しかし堀木先生は、文章はすべて理論で成り立っているのだから理論立てて考えなさい、そうすれば自ずから正答は導き出されます、と繰り返し諭しました。
それは私にとって、まさに「目から鱗」の教えでした。

堀木先生の教えを忠実に守ると現代国語の偏差値は何と30も上がり、堀木先生の「小論文ゼミ」では私の書いた文章が模範解答で配られました。

さらに堀木先生の「近代文学史」の講座、これが輪を掛けて面白いものでした。
受験という枠にとらわれない数多くの史実やエピソードを教えて下さり、文学への興味がより一層増していきました。

ひとつ例を挙げます。

「古事記」から現代まで続く文学の流れを2つに分けるとすると、それは明治38年が境といってよい。
その年は島崎藤村が「破戒」を発表した年であり、それはまさに自然主義文学が誕生した年ともいえる。
自然主義とは即ち「現実暴露の悲哀」をテーマにしたものであり、それまでの「文学=娯楽」といった流れとは明らかに一線を画すものである。
ただし藤村の存在だけでは自然主義の確立は不十分であったが、その直後に田山花袋が自身の体験をベースにし、主人公が親戚の女の子が残した蒲団の匂いを嗅いでさめざめと泣く「蒲団」を発表し、それが広く支持された事によって、自然主義文学は隆盛を誇るようになっていった。
その後の近代文学は、要約すれば「自然主義」対「耽美派」「白樺派」「余裕派」等の「反自然主義」という、いわば「自然主義」を軸とした流れの中で発展していった。

こんな感じです。
あれから30年、今も堀木先生は教鞭をとられていらっしゃるのでしょうか?

図書館の片隅にて

2012.10.26

しばらく前に、所要で長野県内の某高校を初訪問しました。
少し時間に余裕があったので図書館をぜひ見てみたいと思い、行ってみることにしました。

授業中とあって生徒の姿はなく、館内は静寂が支配していました。
図書館の蒸せ返るような書物の匂いは昔も今も変わっていません。
そんな中、まず向かったのは日本文学全集のコーナーでした。
一体どんな作家の全集が並んでいるのか興味津々です。

書架の端からゆっくりと目を移していくと、私の目は一点に釘付けになりました。
そこには、戦後生まれの作家としては私が最も好きな2人、中上健次と開高健の全集が同じ棚に並んでいました。
ちなみに、その「中上健次全集 全15巻」は私の書架にも大切に収められています。

今の高校生もこの2人を読んでいる事が嬉しくて、思わず心躍らせながら中上健次の1冊を手に取ると、しかし本そのものはまるで新品のようにきれいなままです。
一番最後のページを開いて貸し出しの履歴を見てみたところ、何と借りた人はゼロ・・・それはどの中上健次の本も同じでした。
それよりもっと古くに出版された開高健全集は、それでもかろうじて1人が借りています。
という事は、これらの本は10年以上もの間、誰にも見向きもされずに、そこにただ置かれていただけなんですね。
何てもったいない・・・思わず心の中でそう呟いてしまいました。

でも高校生にとってみれば、図書館は本を借りる場所というよりは勉強をするスペースなのかもしれませんね。
私が高校生の時もそうでしたし、私自身、市立図書館の自習室で受験勉強に励んだ身ですから、あれこれ言う資格はありません。

でも大人になってみると、若い頃に得た知的財産の大きさって計り知れない事に気が付くんですよね。
そこに中上健次がある、そこに開高健がある、でも全く見向きもされていない、そんな事実がちょっと寂しく感じました。

何だか今日は偉そうな事を書いてすみません。

映画館でのマナー

2012.10.17

数日前、映画館へ「中島みゆき「歌姫」劇場版」を観に行った時の事です(妻が大ファンなので)。
座席指定の席に腰掛けてふと数列前を見ると、そこには驚くほど大柄な女性が。
でもそれは仕方がないとして。
アキれたのは、そんな彼女の頭の上に、さらにマッシュルームのように背が高い帽子が映画が終わるまでチョコンと乗っていた事です。
幸い私の席は数列うしろで座席も段差があったので、彼女の帽子がスクリーンを邪魔する事はなかったのですが、可哀相だったのが彼女の真後ろに座った中年の男性。
こんなに空いている場内で、よりによって何でこんな席を取ってしまったんだろうとさぞかし後悔したことでしょうね。
映画に限らずライブでも「お願いだから帽子は脱いで」と心の中で叫んだことが何度かあります。

続いてはしばらく前「ヘルタースケルター」を観に行った時に出会った女子高生の2人組。
私の数席向こうで、映画が始まってからずっとお菓子を食べているのですが、お菓子のビニールの包みを取る時のガサガサという音の耳障りな事といったら。
よっぽど注意しようかと思ったのですが、いかにも映画館慣れしていなさそうな彼女たちに水を差すのがいたたまれず、私が席を移動しました。
ちなみに映画の出来は今イチでしたが、正直、沢尻エリカは大いに見直しました。

さらに先月「プロメテウス」を観た時の事。
チケットを買って、さあ入場しようとしたその時、映画が終わってちょうど場内から出てきた若い男性2人連れが、何と大声で映画のラストシーンを喋っている。
思わず耳を疑いました。
結局彼らが話していたのは私が観た映画の結末ではなかったのですが(私が観た「TOHOシネマズ上田」には8つの映画館が入っています)、いくら他意はなかったとはいえ、もし彼らと同じ映画を観ようとした人がそれを聞いてしまっていたらと考えると、何だか憤懣やる方ない思いに駆られた一瞬でした。

でも私が今まで映画館で遭遇した非常識ナンバーワンは、数年前に新宿で「ザ・ローリング・ストーンズ/シャイン・ア・ライト」を観た時に遭遇した数名の若者です。
同映画はストーンズのライブ風景を巨匠マーティン・スコセッシが撮影したドキュメンタリーで、ストーンズの魅力を余す事なく引き出した名作として高く評価されました。
私が観た時も場内はほぼ満席で、「タクシードライバー」以来大好きなスコセッシの映像と数々の名曲とに酔っていたのですが、映画も終盤に差しかかる頃に何気なく場内を見渡すと、はるか向こうの席で何と若者が数名、体を前後左右に激しく揺らしながら踊り狂っているのです。
おいおいっ、これはライブビューイングではなくて、れっきとしたライブ映画なんだぞ!勘違いするな!思わずそう叫びたくなりました。
それにしても彼らの周囲の観客はどれだけ迷惑だった事か、想像に難くありません。
余談ですが、ストーンズのライブ映画では、ハル・アシュビー監督の「レッツ・スペンド・ザ・ナイト・トゥゲザー」が私は同じくらい好きです。
学生の時、何回映画館へ通ったことか・・・。

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