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米長先生の思い出

2012.12.19

将棋の米長邦雄元名人がご逝去されました。
「名人」をはじめ数多くのタイトルを取り、昨今は日本将棋連盟会長として粉骨砕身されてきた将棋界の重鎮でした。

盤外でも数多くの名言を残し、中でも「相手にとって重要で、自分にとってはどうでもいい対局こそ、全力で相手を倒しに行かなければならない」という米長哲学は、多くの棋士のみならず我々将棋ファンにも多大な影響を与えました。

私自身が米長先生にお目に掛かった事は2度あります。

1度目は、東京千駄ヶ谷にある将棋の総本山、日本将棋連盟の特別対局室にて、対局を拝見した時です。
実は結婚前、将棋を全く知らない妻に、対局中のプロ棋士の美しさをぜひひと目見せたいと思い、ダメもとで日本将棋連盟に対局観戦のお願いの手紙を出したところ、何とOKのお返事を頂いたのでした。

当日緊張とともにフロア一番奥の特別対局室に通され、その時目の前で対局していたのが、当時王将戦のリーグ戦を戦う米長先生と森けい二先生でした。
たった5分ほどの観戦でしたが、おふたりの凛とした美しさは妻ともども今でも脳裏に焼き付いています。

2度目は、米長先生が上田市民会館で講演をされた時でした。
私と妻は米長先生に会いたい一心で、何のアポも取らずに会場へ出向き、「米長先生のファンです。会わせて下さい」と係の方にお願いして、先生の控え室への突入に成功。
その時米長先生は嫌な顔ひとつせずに我々に応対して下さり、そっと差し出した色紙にサインとともに素敵なひと言を添えて下さったのでした。

「化粧より微笑み」。
そう記された色紙は今も私の書斎に大切に飾ってあります。

絶品の「芝浜」

2012.12.15

クラシックの「第九」に匹敵する落語の年末の代名詞「芝浜」。
私も大好きな人情噺ですが、先日、久々に絶品の「芝浜」を聴くことができました。

立川談慶。

上田市出身で、慶応大学を出たあとワコール勤務を経て立川談志へ入門したという変わった経歴の落語家です。
でもその実力は正統派。
東京はもとより地元長野県も大事にし、その高座の数に比例して評判も年々うなぎ登りです。

今回聴いたのは、上田市でしばらく前に閉館したレトロな映画館「上田映劇」で開催された立川談慶独演会でした。

ちなみにこの映画館は、小学生の時観て大感動した「タワーリングインフェルノ」をはじめとして今日に至るまで、数多くの映画に邂逅する事ができた、私にとっても思い出のハコです。
古い映画館ゆえ決して空調も万全とはいえない中始まった独演会は、まずは「金明竹」「看板のピン」の2席のあと、中入りを経て、いよいよ本日のメイン「芝浜」。

素晴らしかったです。
鳥肌が立ちました。

まず何より、今まで聴いてきたどの「芝浜」よりシャープで、情景や人物描写のメリハリに優れ、まさに「エッジが立っている」という表現がピッタリの熱演でした。

そして登場人物の存在や言動を徹底的に掘り込んで独自の解釈を持たせ、噺に一段の説得力を持たせて観客をぐいぐいと引きずり込んでいく、まさに立川流の真骨頂を見た思いでした。

「夢になっちゃいけねえ」というサゲを聴いた瞬間、惜しみない拍手を送り続けた今回の「芝浜」、立川談慶という落語家の大きな成長を感じさせる素晴らしい一席でした。

師匠、これからも追い掛けますよ。

「哲ねこ七つの冒険」

2012.12.01

いつも一家でお付き合いさせて頂いているご近所のKさんファミリー。
お嬢様のAさんが息子と同じ高校の1年生です。

そのAさんが大の本好き。
読書量と速度は大人顔負け、驚くべきものがあります。

しばらく前には、私が読了したばかりの古典ミステリーの傑作、サラ・ウォーターズの「半身」を渡したところ瞬時にして読み終えてくれたり、私が薦めた開高健をすぐに図書館で探し当ててくれたりと、本を通じての楽しいキャッチボールを楽しむ毎回です。

そんなAさんが小さい頃から思い入れのある一冊として挙げたのが「哲ねこ七つの冒険」(飯野真澄著)でした。
早速彼女から借り受け、児童文学としては異例の400ページ超というぶ厚い一冊を読み始めました。

主人公の女の子とお母さんが旅先の黒姫高原で迷い込んだ不思議なねこたちの世界。
そこでは哲学を語るねこ、すなわち哲ねこたちが、ふたりを素敵な哲学の冒険の世界に誘います。

いやあ、面白かったです。
児童文学という枠を越えて、女の子とお母さんが成長していく姿に胸躍らせ、最後は思わずホロリとしてしまいました。

七つの冒険で出てくる哲学者のパロディも秀逸で、アリストテレスから始まって、途中ハイデガーまで登場した時は驚きで思わずのけぞってしまいました(笑)。

昨夜その本をAさんに返却したのですが、その際せっかくだから私からも何か本をプレゼントしようと、悩むことしばし。
同好の士へ贈り物を選ぶ時間は、まさに至福のひとときです。

迷った末に選んだのは「武士道シックスティーン」「武士道セブンテイーン」「武士道エイティーン」(誉田哲也著)の3部作。
刑事小説を専門にしていた筆者が初めて手掛けた青春小説で、最後のページを閉じた瞬間、不覚にも私は泣いてしまいました。
映画化された時も真っ先に観に行きましたし、私の大のお気に入りのシリーズです。
Aさんにも気に入って頂けると嬉しいな。

一生懸命の意味

2012.11.12

東京のJR品川駅高輪口のすぐ脇に1軒のパチンコ店があります。
このお店の前を通るたびに必ず目にするのが、客寄せのために自動ドアの前で、ハッピ姿で元気よく踊っているアルバイトの学生さんです。

時には男性1人だけで、時には女性1人だけで、またある時は男性と女性2人で、音は流れていませんがたぶんi-podか何かを聴いているのでしょう、リズムに乗りながら一心不乱に道行く人の目の前で踊り続けています。
逆に音がないからこそ、ハッピ姿で延々と踊り続けるその姿は通行人の目を引くにはあまりに十分です。
かくいう私の目も、お店の前を通る時は彼らに釘付けです。

そして見るたびに感じるのですが、踊っている学生さんによって、彼らの恥ずかしさの度合いがはっきり分かるのです。

いくらバイトとはいえ「やらされている感」がある人というのは、踊りもどことなくぎこちなく、そして動きも緩慢です。
逆にこれは仕事と割り切って羞恥心をかなぐり捨てて踊っている人は体のキレもよく、そして何より表情が明るいです。
特に女性が踊っている場合はそれを顕著に感じます。

で、何が言いたいのかというと、どうせ恥をかくのならキッパリとかき捨てて踊っている学生さんの方が輝いて見えるという事です。

ちょっと下をうつむいて恥ずかしそうに踊っている学生さんには、そうやって恥ずかしがっている方がカッコ悪いよ、どうせなら思い切りハジけちゃいなよ、その方がうんとカッコよく見えるから、思わずそう言ってあげたくなります。

彼らにとってみれば、バイトでパチンコ店に行ったら店の前でひたすら踊ることをたまたま命じられて、こんなはずじゃなかったともしかしたら思っているかもしれません。
でもそこで一生懸命にできるか否かで、その人のその後の生きざままで、たとえちょっとずつでも変わってくるのではないか、そんな気がいつもしています。

そしてその光景を見ながら、実は私自身も学ばせてもらっているのです。
最後に必ず「頑張れよ」と心の中で呟いて、そのお店の前を通り過ぎる毎回です。

文章は理論なり

2012.11.02

前回の流れでもう少し書かせて下さい。

高校時代、授業に付いていけず落ちこぼれた私は、授業中こっそりと中上健次や開高健や村上龍といった作家を読み耽る毎日でした。
さらには高校3年にもなると授業そのものがかったるくなって、授業をさぼっては図書館に入り浸るようになりました。

受験の結果は当然のごとく失敗。
浪人生として東京の代々木ゼミナールへ通うようになり、そこで私は大いに影響を受ける事となる1人の講師と出会いました。

堀木博礼先生。
現代国語の講師で、代ゼミでも1・2を争う人気講師でした。
知っていらっしゃる方も多いのではないでしょうか?

堀木先生の日頃の教えをひとことで要約すれば「文章は理論」、これに尽きます。

それまで現代国語の試験といえば、感覚で解答するのが当たり前で、例えば「この時の主人公の心理を述べよ」とか「ここでの筆者の主張を100字以内で記せ」とか、ほとんどの設問は感覚で答えているのが常でした。

しかし堀木先生は、文章はすべて理論で成り立っているのだから理論立てて考えなさい、そうすれば自ずから正答は導き出されます、と繰り返し諭しました。
それは私にとって、まさに「目から鱗」の教えでした。

堀木先生の教えを忠実に守ると現代国語の偏差値は何と30も上がり、堀木先生の「小論文ゼミ」では私の書いた文章が模範解答で配られました。

さらに堀木先生の「近代文学史」の講座、これが輪を掛けて面白いものでした。
受験という枠にとらわれない数多くの史実やエピソードを教えて下さり、文学への興味がより一層増していきました。

ひとつ例を挙げます。

「古事記」から現代まで続く文学の流れを2つに分けるとすると、それは明治38年が境といってよい。
その年は島崎藤村が「破戒」を発表した年であり、それはまさに自然主義文学が誕生した年ともいえる。
自然主義とは即ち「現実暴露の悲哀」をテーマにしたものであり、それまでの「文学=娯楽」といった流れとは明らかに一線を画すものである。
ただし藤村の存在だけでは自然主義の確立は不十分であったが、その直後に田山花袋が自身の体験をベースにし、主人公が親戚の女の子が残した蒲団の匂いを嗅いでさめざめと泣く「蒲団」を発表し、それが広く支持された事によって、自然主義文学は隆盛を誇るようになっていった。
その後の近代文学は、要約すれば「自然主義」対「耽美派」「白樺派」「余裕派」等の「反自然主義」という、いわば「自然主義」を軸とした流れの中で発展していった。

こんな感じです。
あれから30年、今も堀木先生は教鞭をとられていらっしゃるのでしょうか?

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