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魂の音楽

2013.03.13

苦しかったり悩んだりして仕方がない時、ついつい「本物」に救いを求めてしまいます。
クラシック音楽もそのひとつです。

しばらく前、NHK教育の「ららら♪クラシック」で小林研一郎が登場していて、思わず画面に釘付けになりました。
20代の頃、彼の演奏会にどれだけ足を運んだことか。
チャイコフスキー5番、ベルリオーズ「幻想交響曲」、マーラー2番「復活」、オルフ「カルミナ・プラーナ」・・・あの頃の胸の高鳴りは今も忘れません。

魂の音楽といえば、フォーレの「レクイエム」が大好きです。
中でもクリュイタンス指揮、パリ音楽院管弦楽団のフォーレは珠玉です。
フィッシャー・ディスカウのソロ、透明感溢れる崇高な合唱、その「祈り」に満ち溢れた演奏にどれだけ涙したか計り知りません。

私はそれほどクラシックに精通している訳ではありませんが、学生時代から馴れ親しんだバッハやヘンデルを聴くと、今も変わらず心癒され、そして多くの元気と勇気とをもらいます。

近代フランス音楽も好きです。
中でもラヴェルの「ダフニスとクロエ」は、聴くたびにその幻想的な世界に浸り切っている自分がいます。
ちなみに坂本龍一は、自らの音楽をラヴェルやドビュッシーらの影響を受けているとはっきり語っており、YMO「散開」後の「メディアバーン・ライブ」のピアノソロで最初に演奏された曲はサティの「ジムノペディ第1番」でした。

私が小学生の時、初めて自分のお金で買ったクラシックのアルバムは今もはっきり覚えています。
中村紘子、海野義男、堤剛によるチャイコフスキーピアノ三重奏曲「偉大なる芸術家の思い出」。
実は同じメンバーで同じ曲目のコンサートが上田市民会館で開かれるに当たって、予習のために買った1枚でした。
すり切れるほど聴いたこの作品も、今なお変わらず私の魂の1曲となっています。

そして今、心待ちにしているのが、間もなく東京で開催される、当ブログでもおなじみの神田将さんのコンサートです。

この欄で何度も申し上げているように、現代エレクトーンは我々が以前結婚式などで聴いていたエレクトーンとは全くの別物。
まさに「ひとりオーケストラ」の名に相応しい、例えばオーケストラのシンフォニーをたったひとりで表現してしまうような、ダイナミックさと繊細さとを兼ね備えた最新鋭の楽器なのです。
そして神田将さんのストイックで全身全霊を傾けた演奏は、エレクトーンという楽器に余すことなく魂を吹き込み、そして同時に、我々の心をも激しく揺さ振るのです。

お詫び

2013.03.13

すみません。
パソコンの不調で3月に更新した2回分のブログが飛んでしまいました。
気を取り直してまた少しずつアップしていきますので、これからもお読み頂ければ幸いです。

何はともあれご報告とお詫びまで。

ラジオを聴いていたら。

2013.02.14

しばらく前に車を運転しながら地元の民放ラジオを聴いていた時のことです。

その日臨時の男性パーソナリティMさんと熟練の女性パーソナリティKさんとが会話をしていて、たまたま結婚披露宴の話題になりました。

Mさんは仕事上、相当数の披露宴の司会をこなしているらしく、その回数に触れた時に彼は思わず「〇〇本」と、「本」という単位を口走ってしまったんですね。
しかも一度ではなく何度も。

確かにMさんにしてみれば披露宴の司会はあくまでも仕事の一環で、だからこそ回数は「本」で数えるものなのかもしれません。
でも公共の場でそれを言ったらアウトですよね。

もし実際に彼に司会をしてもらった当人たちがこの発言を聞いたとすれば、Mさんの愛情のなさに、大きな失望感を感じるのではないでしょうか。

少なくとも私は彼のこのデリカシーのないひと言を聴いて、それまでの彼のイメージが大きく崩れ去りました。
たったひと言の言葉遣いで、彼の人間性が垣間見えた気がしました。

ちなみに相方の女性パーソナリティはこの発言に敏感に反応して、直後に「・・本って(言い方はないでしょう?)」とさり気なくフォローしていましたが、彼は全く気が付く気配がありませんでした。

良きにつけ悪しきにつけ、言葉は時にその人の隠された本心を現してしまうもの。
結局は日頃からの心の持ち様が大切ということでしょうか。

火まつり

2013.02.09

毎年2月6日になると、紀伊半島の突端にある海と山とに囲まれた小さな街、和歌山県新宮市に思いを馳せます。

この日は新宮市の神倉神社で「お燈まつり」、別名「火まつり」が行なわれる日です。

中上健次生誕の地であり、今から20年前(もうそんなに経つのですね・・・)46歳の若さで中上がこの世を去るまで一貫して彼の小説のテーマであり続けた新宮の街。

上田から鉄道で7時間掛けて妻と共にこの「火まつり」を観に行ったのは、もう10年以上前になります。
それはただひたすらに、中上健次という小説家を少しでも近くに感じたいがための旅でもありました。

その日雨がそぼ降る新宮駅に到着すると、前年に新宮を初訪問した際に我々をナビゲートして下さった市役所観光課の男性が出迎えて下さり、驚くことに、そこには祭りに参加するための私用の白装束と松明(たいまつ)が用意されていたのでした。

心構えのなかった私は悩んだ末に丁重に参加をお断りしたのですが、それは神聖なまつりへの畏怖と、加えてよそ者の自分がそんな場所へ突然入る事へのためらいがあったからでした。

日の高いうちから街のあちこちで松明を打ち合う白装束の男たち(「上がり子(あがりこ)」と言います)は、日が暮れると一斉に神倉山の山頂にある神倉神社へ向かうための石段を次々と登って行きます。
ちなみに何百段もあるこの石段は、私も登ってみたのですが、目まいのするような急坂です。

午後8時、神倉神社の狭い境内にぎっしりと集まった2000人を越える上がり子は、門が開かれると同時に我れ先にと一斉に石段を駆け下り、それと同時に真っ暗な山の陰影には無数の松明の火が一直線に走って、その光景はひたすら神々しく幻想的です。

そして我々が見守る山の裾野へ息も絶え絶え辿り着いた上がり子たちは、中には転倒して怪我を負った者も少なくない中、誰もがまつりを無事完遂した満足感に満ちた笑顔で次々に新宮の街へと散っていくのでした。

この「火まつり」の様子は「YouTube」でも観られるでしょうし、柳町光男監督、中上健次脚本の映画「火まつり」のクライマックスシーンで観ることも出来ます。
この映画も私が何度も映画館へ足を運んだ大好きなフイルムの1本です。

ちなみにこの時用意して頂いた松明は、もちろん大切に自宅に保管してあります。

えっ、どうしてダメなの?

2013.02.02

唐突ですが、食事に関して皆に驚かれる事があります。

ひとつめ。
私は牡蠣が大好物です。
生牡蠣、焼き牡蠣、蒸し牡蠣、カキフライ・・・どれも大好きで、際限なく食べ続けることができます。

が、ご飯と一緒に食べることができないのです。

私にとって、牡蠣はあくまでも極上の酒の肴であって、例えばカキフライ定食などはもってのほか。
牡蠣はあの磯の香りこそが命と思っているのですが、そのフレッシュな生々しさとご飯とが合うとは思えないのです。
それを話すとみんな驚きますけどね。

逆に、肉厚でプリプリの牡蠣を、それぞれの産地を確かめながら日本酒と一緒に流し込む瞬間というのは、まさに至福のひとときです。

もうひとつは握り寿司。
当たり前ではありますが、これまた私の大好物です。

が、私にとってお寿司は酒と一緒に食べるもの。
言ってみればこれまた極上の酒の肴であって、お寿司単体では、食べられない事はありませんが、お寿司のおいしさが半減してしまうのです。

例えば回転寿司も、あそこは基本的に「飲む」場所ではありませんから私は滅多に行きません(酒肴とお酒が充実しているお店は別ですが)。
しかし子供たちの希望があったりして行く時は、私は店内では一切食べず、自分が食べる分だけ持ち帰りにして、帰宅後に酒と一緒に楽しむといった事が少なからずあります。

伊集院静のエッセイで、ふらりと立ち寄った寿司屋で「1人前をゆっくり握って下さい」と頼んでビール1本とお銚子3本を楽しんだ、なんていうくだりを読むと喉が鳴りますね。

そんな訳で、私が贔屓にしている地元の海鮮処では、今の時期だけ登場するカキフライ(ひと皿5個は多いのでいつも3個にしてもらいます)と、そのあと握ってもらう1人前の寿司を楽しみながら、熱燗を閉店までダラダラと楽しんでいます。

ちなみにいつかのように、帰り道で転倒して大流血し、血まみれの私を見て玄関で妻に悲鳴を上げられそのまま緊急医に運び込まれた、なんて事はもうしないようにいつも気を付けています。

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